specialカマカ社の人々インタビュー
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100年近く続くカマカウクレレ。ファミリーで営んできたウクレレ作りには、中心となる男たちを陰で支えた女性たちの姿がある。今回は2代目プロダクション・マネージャーの妻であり、3代目のクリスやケイシーの母であるジェラルディン・カマカに話を伺った。彼女の歩んできた道のりを追ってみたい。

Geraldine Kamaka Profile
1927年ミネソタ・アレクサンドリア生まれ。カマカ社の2代目プロダクション・マネージャー、サミュエル・カマカJr.の妻であり、現在のプロダクション・マネージャー、クリス・カマカやカスタム担当、ケイシー・カマカの母。長年カマカファミリーを支えてきた人物。愛称はジェリー。



医療の仕事がカマカに及ぼした影響

――あなたがハワイにやって来たのはいつですか?
「私はミネソタ州のアレクサンドリアにある小さな町で生まれ育ち、この町の高校を卒業してから軍隊の医療部隊でオキュペーショナル・セラピー(作業療法)という仕事をするようになったんです。それは農耕や手芸などの作業を行うことによって、障害者の身体機能や精神機能の改善を目指す治療法で、リハビリの一環として行うものです。インディアナポリスのステーションに配属されてしばらく仕事をした後、転属でサンフランシスコへ移りました。そこで2年間仕事をして辞めました。少しのんびり休んだり、なにか好きなことをやってみたいと思ったんです。それでどこに行こうか考えた時、暖かいハワイがいい、と。学生時代の友達がすでにハワイに住んでいて、よく遊びにおいでと手紙をもらっていたんです。それにハワイには軍隊のステーションもあったので、軍隊時代の知り合いもたくさんいましたし。それでハワイに引っ越したのが22歳の時です。しばらくハワイで休暇を楽しんだ後、そろそろ仕事を探さなきゃと、いろんな病院を回ってオキュペーショナル・セラピーの仕事を探したんですが、なかなか見つからない。仕方がないから次の仕事が見つかるまでと思い、ドレスショップで働き始めて結局1年くらいその店にお世話になったかしら。その後セラピーの仕事を見つけてセント・フランシスという医療機関で働き始めましたが、そこはホノルルの一角にあるネイティブ・ハワイアンが多い地域でしたので、初めてハワイアンと知り合ったんです。最初は言葉も全然わからなかったけど、2年経つ頃には親しくなって言葉もだいぶわかるようになりましたね。入院患者ではなく在宅患者たちの訪問介護をやっていました。1軒ずつ回って患者さんに自分で服を着ることや血圧を測ること、ラフィア(椰子)の葉でものを作ることなどを教えていたんです」



昔メインランドで行われたフェスティバルにカマカウクレレを出展した際の写真。
――サム(サミュエル・カマカJr.)との出会いは?
「なんとなくサムと知り合って、メインランドからハワイに来ていた女友達と、彼女のボーイフレンドと4人で仲良しグループだったんです。そのうちだんだんサムと親しくなって、私たちは付き合うようになったんです。サムは当時病気のお父さんがワイアナエにいたので、よく看病しに行っていましたね」

――結婚したのはいつですか?
「えーと……私は覚えていないけど……ちょっとサムに聞いてくるわ(笑)」
(と言って数分後)
「1956年1月7日ですって。50年以上も経つのね……。その友人カップルも同じ時期に結婚して、結局どちらのカップルも子供が7人ずつ(笑)。ずっとファミリー同士で仲良くしていたんですよ」


ウッドベースを弾くサム。
――結婚した時、サムはカマカファクトリーで働いていたんですか?
「結婚する前からすでにお父さんが病気でファクトリーが上手く稼働していなかったので、サムが立て直すと言って一生懸命頑張っていました。サムが自分でウクレレを作り始めたのがちょうど結婚した頃で、できあがったウクレレを初めて売って手に入ったのが25ドル。それは当時の私たちにとってはとても大きなお金で、すごく嬉しかったのを覚えていますよ」

――サムと知り合う前にウクレレに触れたことは?
「ウクレレの存在すら知らなかったんです。ハワイアンミュージックに関しても全然知らなかったくらいですから」

――サムがファクトリーで働いている間、どのように過ごしていたんですか?
「子供が生まれるまではファクトリーで事務の仕事を手伝っていました」


サムの母親で、クムフラだったメイ・ジョセフィン・カマカ。
――最初の子供がクリス?
「そう。三男四女の7人。孫は16人、そして2人の曾孫がいます。子供ができてからは私にとっては子供を育てることの方が重要だったから、ずっと家にいて家事をやっていました」

――でも以前クリスが、身体に障害を持つ人々にファクトリーのスタッフとして仕事をしてもらうキッカケはあなただったと聞きました。
「もともと私がしていたのが障害者を対象とした治療の仕事だったから、そういう人々に仕事を与えたくて、ファクトリーで仕事をしてもらわないかとサムに相談したんです。まずは私が以前担当していた患者さんや知り合いを3人紹介したんです。彼らは耳は不自由だったけど視力も感覚もしっかりしていたから、きっといい仕事ができるだろうと信じて。結果、彼らはすごくいい仕事をしてくれたので、彼らの家族や知り合いなどもスタッフとして集まることになったんです」


ジェリーは穏やかでとても優しい人。この笑顔に人柄がよく表れている。
――そのアイディアをサムに相談した時のことを覚えていますか?
「ええ、よく覚えていますよ。私はすごくいいアイディアだと思って言ったんですけど、サムとしてはファクトリーを立て直そうとスタートを切ったばかりで、まだ土台もしっかりしていないし、当時は作ったウクレレを手売りでショップを回っていたくらいだったので、なかなか首を縦に振ってはくれなかったんです。サムも不安だったんでしょうね。でもじっくり話をしていくうちに、サムはそうすることに決めました。いったんそうと決まれば、サムは彼らと一生懸命コミュニケーションを取って頑張っていましたよ。話すことができないスタッフもいたので、その人とのコミュニケーションのために手話を覚えたりしてね」

――これまで何人くらい障害を持ったスタッフがいたんですか?
「全部で15人くらいかしら。その多くの人たちは何十年にも渡ってずっと仕事をしてくれたんです。すごくいい職人さんたちでした。クリスとケイシーももちろん素晴らしい職人ですけどね。クリスは学校から帰ってくるとすぐファクトリーに行って床の掃除などをしていましたね。それが彼のカマカファクトリーでの最初の仕事だったから、特に私たちがやりなさいと言ったわけでもないのに、自分から進んで働いていたんですよ」


息子のクリス・カマカとウィリアム・ババ・アリムートによるユニット、ヘマ・パアの演奏を聴くカマカファミリー。ジェリーは家族が奏でる音楽を聴くのが好きだという。
――クリスはしっかり者の長男だったんですね。
「彼にとってはファクトリーにいることがすごく楽しいことだったんだと思います」

――父親から引き継いだウクレレ作りの仕事に情熱を燃やしているサムを隣で見ていて、どう感じていましたか?
「サムは本当に一生懸命やっていたので、私にとってはとにかく彼が何か困っていたら、必要な時はいつでも自分が助けになる存在でいることがすべてでした。そういうふうにやってきたから、子供たちみんながカマカと関わっていたいと思えるファミリーになったんだと思います。サムの働く姿勢とそれを支える私の姿、それが子供たちに伝わったんだと思います」

――ウクレレはあなたたちファミリーの人生の大きな部分を占めています。ウクレレがあってよかったと感じるのはどんなときですか?
「家には常にウクレレと音楽があったので、子供たちはいつもウクレレを弾いていました。やっぱりウクレレがあることで音楽を楽しむ環境がいつも自然にできあがるから、みんなすぐ歌いたがるし演奏したがるし、私はそれを見て楽しむことができるんです。自分で弾いたり歌ったりはできないけど、私にとっては家族が音楽を楽しんでいるのを見ていることが幸せなの」

(ここにサム登場)

――サム、ジェリーがあなたのウクレレ作りを支えてくれたこと、どう感じていますか?
「彼女を愛しているよ(笑)」

――シンプルですね(笑)。彼女はどんな女性ですか?
「家庭をしっかりと守ってくれて、面倒見のいい優しい人です。カマカファクトリーでハンディキャップのある人たちが仕事をすることになったのも彼女がキッカケだしね。外見だけでなく、心も美しい人ですよ」



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