" Don't make junk "
――これがカマカの哲学。
西欧の文化とともにハワイに流れ着いた楽器は、やがてウクレレとなった。それから長い年月を経て、“ハワイアン・ミュージックといえばウクレレ”というイメージが日本でも定着した。ウクレレというハワイの文化について、カマカ社の2代目フレッド・カマカSr.と現在のビジネス・マネージャーである3代目フレッド・カマカJr.に話を伺った。
Profile
Fred Kamaka Sr.
1924年9月16日ハワイ・カイムキ生まれ。カマカの創始者サミュエル・カイアリイリイ・カマカの息子であり、サミュエルJr.の弟。ワシントン州立大学卒業後、軍隊勤務を経て1972年からカマカ社に加わる。先代のビジネス・マネージャーとしてサミュエルJr.とともにカマカ社を支えてきた。現在はカマカ工場見学の案内役を務めている。
Fred Kamaka Jr.
1964年3月4日ハワイ・ホノルル生まれ。カマカ社の2代目ビジネス・マネージャー、フレッド・カマカSr.の息子であり、現在のビジネス・マネージャー。管理・事務部門を統括する責任者である。クリス・カマカやケイシー・カマカとともに現在のカマカ社を支えている。
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ウクレレの原型は1879年にポルトガル人がハワイに持ち込んだ、プラキンハと呼ばれる小型ギターであり、最初にウクレレを作ったのは、マニュエル・ヌネスというポルトガル人だった。音楽好きだったカラカウア王は彼の作ったウクレレをいたく気に入ったという。その後ハワイやアメリカ本土で製法を学び、1916年にカイムキの自宅でウクレレを作り始めたのがサミュエル・カイアリイリイ・カマカ。後にウクレレの代名詞と称されるまでになるウクレレ・メーカー、我らがカマカの創始者である。以来、カマカはウクレレ作り一筋で一世紀近い歴史を誇っている。
これまでのウクレレブーム
ウクレレの歴史にはブームとその衰退という波があったという。20〜30年代のハワイアン音楽の隆盛と衰退、40年代の第二次世界大戦では兵士たちはウクレレを持って戦地へ赴いた。しかし、その後ふたたびウクレレ音楽は下火となる。
フレッド・カマカ Jr. |
Jr.「60年代前半までは、あまりウクレレが弾かれなくなった時期でした。そこで60年代後半から70年代前半にかけて公立の小学校でウクレレを教えるようになったんです。というのも、その時期はハワイの文化を学校で教えようという動きが強まっていたときです。ウクレレの授業はハワイアン・ミュージックに馴染みのある純血のハワイアンが通う公立小学校からスタートしました。ハワイアン・ルネッサンスとともにまたウクレレが盛り上がったんです。でもそのブームが去ると、次は80年代にカアウ・クレーター・ボーイズというバンドの出現によってまたウクレレ人気に火がついたんです。このバンドのおかげで『ウクレレを弾くことはカッコいい』というイメージが定着しました。彼らに憧れて子どもたちは真剣にウクレレを弾くようになり、彼らの『Serf』という代表曲は当時の子どもたちなら誰もが弾ける曲です。それ以降はウクレレの人気は衰えていません」
そして現在。ジェイク・シマブクロはそれまでのブームをはるかに凌ぐ大きなウクレレ・ムーブメントを作り上げた。ウクレレでできることの可能性を大きく広げ、ハワイの子供たちは彼のプレイを夢中で真似している。そのジェイクが弾いているのがカマカウクレレであり、彼はカマカ以外のウクレレは使わないという。
カマカの哲学と未来
フレッド・カマカ Sr. |
現在のカマカ社は製作面をクリス・カマカが、ビジネス面をフレッド・カマカJr.が担当している。カスタムラインを担当するケイシー・カマカも含め3人が会社を支える存在だ。
Jr.「私が担当しているのはセールス、マーケティング、経理というビジネス面全般です。初代のサミュエル・カマカは製作とビジネス両方を一人でやっていたんです。その次の代になるとサミュエルJr.が製作、フレッドSr.がビジネスというふうに兄弟で役割を分担するようになりました」
Sr.「私は5歳のころから工場でウクレレ作りに参加していますが、その頃からいつも言われ続けているのが”Don’t make junk”(ガラクタを作るな)。これがカマカの哲学です。たとえどこか一部分手を抜けば簡単にずっと早く作れるとしても、父は絶対にそれを許してはくれませんでした。子供だからちょっと失敗することもあります。そうするとそのウクレレは壊されたんです。1953年に父が死ぬ直前に言った言葉は『カマカウクレレという家業を引き継ぐなら、ガラクタを作ってカマカの名前を汚すな』でした。その教えは私たちに徹底的に浸透しています」
フレッドJr.はクリス・カマカと共に
今のカマカ社の経営を支えている。 |
祖父と父が守ってきたカマカの哲学を3代目世代はしっかりと受け継いでいる。そして引き継いだものに加え、彼ら3代目の目標は“世界中で一番いいウクレレを作る”ことだという。
Jr.「個体差があるので、あまり良くないものができる場合もありますが、それは全部壊すようにしています。製作サイドの人々は壊すことに対してすごくためらいがあるのですが、カマカの品質を高い基準に保つために、必ず行っています。音に関して言えば、“私たちが好きな音のするウクレレ”を作っているんです。カマカの音が良いと言ってくれる人たちがたくさんいるので、その方向は間違っていないんだと思います。ただし、同じ場所にいつまでもとどまっていると飽きられたり追い抜かれたりするので、常に改善を重ねています」
常に世界一のウクレレであり続けるために、今後カマカ工場を別の広い場所に移し、規模を拡張していく予定だという。生産数の増大に伴い、関連グッズなどを販売するウェブ・ストアも立ち上げたいとフレッドJr.は熱く語った。
フレッドSr.は今もファクトリーツアーのガイドを行い、カマカ社が歩んできた歴史と現在のウクレレ作りを多くの人々に伝えている。 |
ハワイの文化を継承すること
初代サミュエル・カマカの妻、メイ・アケオ・カマカはクムフラ(フラの先生)だったという。
Sr.「父はウクレレを作って弾き、母はフラを踊りました。常にフラの近くにウクレレがあったのです。そのフラやウクレレを見た人々から『それはどこのウクレレ?』といつも聞かれるようになり、カマカのウクレレが広く知られるようになりました。それとともにフラとウクレレがどんどん結びついていったのです。アウアナ(フラのスタイルの一つ)の後ろには常にウクレレがあるようになりました。
1937年から始まったコダック・フラ・ショーを始めたメンバーの中に、母の妹ルイーズ・アケオ・シルバがいますが、そのショーの中でも常にカマカのウクレレが使われました。その後いくつものフラ・ショーが生まれましたが、常にカマカが使われるようになっていったんです」
フレッドJr.が通うハーラウ(フラ・スクール)、ハーラウ・フラ・オ・マイキの前で。 |
フレッドJr.は故アンティ・マイキの娘であるクムフラ、コリーン・アイウからフラを習っているという。ともにハワイを代表する文化であるフラとウクレレ。その両方を愛し、次の世代に大切に伝えていきたいという。
Jr.「高校生の頃、フラの授業では正直真剣に踊ってはいなかったんです。それからだいぶ時間が経ち、娘が学校でフラを習うようになりました。父親も一緒にフラを踊るという行事に参加したことがきっかけでフラを習い続けています。そのなかで私が学んだことは、フラはまぎれもないハワイの文化であり、フラを学ぶということは踊りと同時にハワイの言葉を学んでいくことだということです。現代ではハワイ語を日常的に使うことはないので、フラを通して言葉を知ることができるというのは非常に大切なことです」
言葉と音楽と踊り、すべてはひとつにつながっている。それを理解してフラやウクレレに触れるとより深く感じるものがあるはずだ。
Jr.「でもウクレレはかしこまらず楽しんで弾くものです。あくまで気軽に楽しんでくださいね」
フレッドSr.の妻エリザベス(右前)と、フレッドJr.の娘エリザベス(右奥)、二人のエリザベスとともに。 |
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