specialカマカ社の人々インタビュー
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1916年にオアフ島カイムキの自宅でウクレレを作り始めたサミュエル・カリアリイリイ・カマカ。以来1世紀近く続くカマカウクレレの歴史を聞くため、初代サミュエル・カマカの息子であり、2代目としてカマカ社を支えてきたサミュエルJr.とフレッドSr.をカネオヘにある彼らの自宅へ訪ねた。

Profile

Samuel Kamaka Jr.
(右)
1922年6月18日ハワイ・カイムキ生まれ。カマカの創始者サミュエル・カイアリイリイ・カマカとクムフラ(フラの先生)であったメイ・アケオ・カマカのもとに生まれ、ウクレレや音楽に囲まれて育つ。ワシントン州立大学およびオレゴン州立大学卒業後、家業を引き継ぎ、カマカ社の2代目プロダクション・マネージャーとなる。

Fred Kamaka Sr.(左)
1924年9月16日ハワイ・カイムキ生まれ。カマカの創始者サミュエル・カイアリイリイ・カマカの息子であり、サミュエルJr.の弟。ワシントン州立大学卒業後、軍隊勤務を経て1972年からカマカ社に加わる。2代目ビジネス・マネージャーとしてサミュエルJr.とともにカマカ社を支えてきた。現在はカマカ工場見学の案内役を務めている。



子供の頃の父の思い出


ふたりの自宅の前の通りは「KAMAKA ROAD」と名付けられている。
サミュエル「私が生まれたカイムキは母方の親戚が住んでいた所で、親戚同士の家はみな近所でした。叔母たちにはエンターテイナーが多く、私たち兄弟は常に音楽と一緒に育ちました。父と母が出会った頃、父はウッドベースを弾いていました。父の若い頃の話はあまりよく知らないのですが、ベースを弾いている写真を持っています。ウクレレ作りはもともと父の趣味みたいなものだったんです。母は学校の先生でしたが、夜になると姉妹たちと集まって、ワイキキのホテルでエンターテイナーとして活躍していました。ダンサーでしたので、女の子たちにフラを教えてもいました。父は1916年に、自宅に最初の工房を作りました。そして1921年には自宅とは別にサウス・キング・ストリートに工房を構えました。何人か職人がいたそうです。自宅はカイムキにあったので、ホノルルにはストリート・カーと呼ばれていたもので通っていました。普通の車も持っていたみたいで、フォードのモデルTです。当時車の値段がどのくらいかは知りませんが、車を持てるほどにお金はあったみたいです」

――その頃のお父さんの思い出はありますか?

サミュエル
「もの心がついた頃の何人かの職人を覚えていますが、彼らは日中働きにやってきますが、夜は育てた花や植物を観光客に売っていたのです。それは父にも影響を与え、父は植物を育てることに興味を持つようになりました。それがこの大きな土地(カネオヘの自宅)を買った理由でもあります。初めにたくさん育てていたのはバード・オブ・パラダイス(極楽鳥花)です。カイムキからカネオヘに引っ越してきたのは1929年なので、その頃父は二つの仕事をしていたと言えるかもしれません。日中はウクレレを作り、それが終わると花をフローリストやホテルまで届けていましたよ。一日中働くのが好きみたいでした」


フレッド「当時は家族が商売をやっていたら、子供は手伝うものでした。工場の隣はウシジマというソファーのメーカーでしたが、6人子供がおり、彼らも同じように働いていました」

サミュエル「今はそんな風潮はないですけどね」

フレッド「一番大変なのは朝3時に起きて焼き始めなければならないパン屋さんだけどね!」

サミュエル「運良くそれは免れたね(笑)」


自宅にはウクレレ形のプールがある。プールからは向かいの山々が見渡せるという美しい自然に囲まれた環境。
――1930年代は学校に通いながら、ウクレレ作りも花作りも手伝っていたのですか?

サミュエル「そうです。子供の頃はサンディングとフィニッシュだけですけどね。あとは配達する花を車に運ぶのを手伝っていました」

フレッド「父はラテンアメリカからバード・オブ・パラダイスを持ち込んだ最初の一人ですよ。種から育てたんです。ただ、花を商売にすることにはあまり興味を持っていなかったですね。むしろ人にあげていました。花は趣味に近かったんだと思います」


パイナップル・ウクレレの誕生


サウス・キング・ストリートにあった「カマカ・ウクレレ&ギター・ワークス」。
フレッド「みな世紀の変わり目ごろからポルトガル人より伝承されたものを真似てウクレレを作り始めたんです。父はギターの演奏家だったのでニューヨークで演奏をしていて1910年から16年までハワイにはいなかったんです。ただギター製作にも興味を持っていたのですが、1916年に5年振りにハワイに戻ってきたとき、まわりの知り合いはみなウクレレを作っていました。人気があったんです。父の良き友人だったジョン・クマラエは1915年のサンフランシスコ・エクスポでウクレレに金メダルを贈られています。当時父は大西洋の船の上でしたよ。父は遅く始めた方だったんです。父はポルトガル人と同じやり方でウクレレを作り始めましたが、ギターの作り方も知っていたので、独自に実験を重ねて音を追求した結果、パイナップル型のウクレレを作るに至りました。でもパイナップル・ウクレレは音で認知されるのではなく、形で有名になりましたけどね」

1910〜20年代に作られた初期型のパイナップル・ウクレレ。ヘッドにはハワイの紋章をあしらったブルー・クレスト・ベグヘッド・シール。
サミュエル「パイナップル・ウクレレは、キング・ストリートにある工場で初めの1本を作りました。そしてアーティストの隣人に見せたところ、彼女はその形がパイナップルに似ていると言って、ボディにパイナップルの絵を書いてくれました。その後、父はパイナップル形ウクレレのパテントを登録したのです」

フレッド「パテントは1927年に申請しましたが、1928年の1月3日まで登録されませんでした。しかし申請したときに受理されることは知っていたので、1927年の10〜12月に作ったウクレレには“Patent pending(パテント申請中)”と記載したのです。ほかにも父はさまざまなラベルを使っていました。そのひとつは青いラベルですが、それは特別なウクレレにしか使っていませんでした」

――子供の頃はお父さんからウクレレの弾き方を教わったのですか?

サミュエル「まわりではみんなウクレレを弾いていましたが、私はそれほど熱心に弾いたわけでもなかったんです」

フレッド「私はウクレレは弾きませんでした。なぜならウクレレから連想されるのは“仕事”だからです。高校生になるまで弾きませんでしたね。でも高校の友達がウクレレを弾いていて、女の子からモテだしたんです。その時『これはいかんぞ!』と思いました。ウクレレプレイヤーは女の子にモテると気づいたんです。これがウクレレを弾き始めたきっかけですよ(笑)。大学ではもう少し本格的にやりましたね。在学中、ウクレレプレイヤーのグループを作ったんです。私たちは第二次世界大戦の徴兵が終わってから、ワシントン州立大学に通いました。1950年にハワイ出身の学生で“ハワイアンクラブ”を作ったのです。今も“パシフィック・アイランド・ネイティブ・クラブ”に名称を変えて残っているみたいです」

――サミュエルはオレゴン州立大学に通っていたのでは?

サミュエル「私はワシントン州立大学を卒業してから、オレゴン州立大学に入学したのです。虫の勉強がしたかったので奨学金を得て、博士号を得るためにオレゴンに行ったのです。1951〜52年のことでした。その後1953年に父が病気になり、看病のために戻ったのです」


1928年1月3日に登録されたパイナップル・ウクレレのパテントの証書。
――二人が大学生のとき、お父さんはひとりでウクレレビジネスを運営していたのですか?

サミュエル「当時はそれほど多くは作っていませんでした。父は半分リタイアしていて、キング・ストリートの工場は貸し出されており、他のウクレレメーカーがそれぞれのウクレレを作っていました」

フレッド「父の良い友人で、メトロノームミュージックという楽器店を営むジョニー・カライという人に夜間と週末は工場を貸していましたね。彼の兄弟が工場で働いていて、カライウクレレは私たちの工場で作られたものです。父と従業員は日中ウクレレを作り、夜の6時になると彼らがやって来て作っていました」

フレッド「父は病気でしたので、従業員を指導することができなくなった。それが工場を貸し出した理由です。喉の癌でした。手術後はしゃべることができるよう、喉に穴が開いていました。父は50年代に入って農家の人々が住むワイアナエに引越しました」

サミュエル「連絡を受けたときは、私はまだ博士号の取得途中でした。よく面倒を見てあげられる人がいなかったので、私が戻りました」

フレッド「でも父は病気であってもウクレレ作りをやめたわけではなく、作り続けました。フルタイムでは作っていませんでしたが、亡くなる直前まで作っていたのです。だから『カマカはずっとウクレレを作り続けている』と言えるんです。もしかしたらビジネスとしては正確には1952年まで作り続けて、2年ほどやめて、1954年から再開したと言うのかもしれませんが、しかしそれは事実とは違います。なぜなら、このセミリタイアの時期に父からウクレレを買った人々がいるからです。そうでなければ“92年もウクレレを作り続けている”とは言えません(※インタビューは2008年の創業92年目に行われた)。父がウクレレ作りをやめたことはありませんでした。ウクレレが彼の人生そのものだったのです」

2代目のウクレレ作り

――二人がウクレレ作りを本格的に始めたのはいつですか?


サミュエル・カマカ Jr.
サミュエル「本格的に携わるようになったのは、1950年代、大学を卒業した後です。そして1953年の12月に父が亡くなったのです」

フレッド「62歳の誕生日前でした。若くして亡くなったんです。母はすでに1936年の9月に乳癌で亡くなっていました。とても若かったですので、父が私たちを育ててくれたようなものです。父は料理上手で料理も教えてくれましたが、彼が言うには『料理を覚えておけば飢えることはない』とのことでした。だから私も学生時代に実家から離れていた時はよく料理をしたものです」

サミュエル「母が亡くなる前に寝室に呼ばれました。当時私はまだ若かったですが、母からの最後のメッセージのひとつが、“Please keep the ukulele shop(ウクレレショップはやめないでね)”でした。それはよく覚えています」


フレッド・カマカ Sr.
フレッド「父は私たちにウクレレ作りを押しつけ過ぎではないかと、不安に思っていました。亡くなる前、母の妹に『押しつけすぎて、息子たちからウクレレ作りへの情熱を奪っていないか心配だ』と言ったそうです。しかし父が亡くなる前のメッセージは“If you make instruments and use the family name, don't make junk.(もしビジネスを引き継ぐなら、ガラクタを作ってカマカの名前を汚すな)”でした。私たちが成長する過程で、事あるごとに父は『ガラクタを作るな』と言い続けましたからね。それが彼のモットーだったのです」


各時代のカマカウクレレ

――サミュエルJr.が跡を継いだ1950年代中頃というのは、ロゴを含めていろいろと変更を加えた時期ですよね。ロゴのアイデアは誰が考えたのですか?

サミュエル「私がウクレレ作りを始めた頃は、父の時代に働いていた職人たちが戻ってきて手伝ってくれ、機材の使い方などを教えてくれました。他にもギターを作っている職人などがやって来ていろいろと教えてくれました。ジョージ・ギルモアもその中の一人です。彼は楽器作りの基礎を教えてくれました。思えば1953年はすべてが勉強の時期でした。そしてウクレレを楽器店向けに作る体勢を整えていったのです。ロゴに関しては、楽器の中に貼るラベルを作ろうと考えている時、私が“KAMAKA”のすぐ下に“UKULELE”と書いたのです。2つのKが重なったのを見て、誰かが『これをロゴにしたら?』と言ったのです」

フレッド「このロゴはカマカの特性をよく表わしています。サムと私の二人が役割を分担してビジネスをしているので、Kも二つということです。軍隊から戻った後、私は売掛金の回収やなど管理の仕事を受け持ち、二名主導体制になったのです。保険会社と交渉する場合などは私が行い、サムは製作業務に専念できるようになりました」

――軍隊から戻ってきたのはいつですか?

フレッド「1972年です。軍隊には25年間いました」

――ということは1960年代は、サムが一人で作っていたのですね?

フレッド「サムがウクレレ作りに集中するため、従兄弟やほかの人々が管理業務を手伝ってくれていました」


近くの教会で行われる聖歌のレッスンに通うサミュエルJr.。やはりプライベートでも音楽につながっている。
サミュエル「初めの頃は面白かったですよ。私はウクレレに関するすべてを調べ直しました。ほとんど図書館に住んでいたと言ってもいいくらいです。さまざまなウクレレメーカーを訪れたりもしました。今はないウクレレメーカーが現役で活動している頃でしたから、彼らの製作工程を見て、フレンチポリッシュのやり方を教わったりしました。東京オリンピック(1964年)の後に、日本でウクレレ人気が高くなった際、日本の遠藤氏と共同でウクレレを作っていたことがあります。日本製はフィリピン・マホガニーを使っていました。ハワイの学校ではコアのウクレレを買うことができなかったので、学校への卸売は日本製のウクレレでした」

――1965年にオータサンモデルを作った時、彼とは一緒に仕事をしたのですか?

サミュエル「彼が希望する音がありました。それに彼は大きめのショルダーを好まなかったので、形はベルの形に似ています。ネックは彼の手に合うよう特別に加工して、何回か調整を重ねました」

――70年代はどんな時代でしたか?

フレッド「その時期は“ハワイアン・ルネッサンス”と呼ばれ、ハワイの文化を学校で教えようという動きが強まっていたときです。文部省が小学校4年生からウクレレの授業をスタートすることにしました。1970年から学校にウクレレを供給することになったのです。ウクレレの授業はハワイアン・ミュージックに馴染みのある純血のハワイアンが通う公立小学校からスタートしました」

サミュエル「70代には私たち以外にウクレレを作っているのはマーティン社くらいでしたね。私たちは70年代はオアフ島内への販売がメインでしたが、80年代に入り景気が後退してからは、オアフ島以外での販売も視野に入れてやってきました」


フレッドSr.は毎週火曜日〜金曜日に行われるカマカ工場見学の案内役を務めている。子供から大人まで、地元の人から旅行者まで、さまざまな人々にウクレレ作りを紹介。
フレッド「1972年にカマカウクレレ拡販のために、雑誌や新聞に広告を出しました。でもその後はその必要がなくなりました。なぜなら注文を多く抱え過ぎてしまったからです。一度に作ることができるウクレレの量はそれほど変わりません。だから広告を出すことはやめました。広告を続ければ大量生産をしなければいけませんが、それはやりたくありません。父は『大量生産をすれば駄目になる。ジャンクを作ることになるぞ』と言っていましたから。2001年には正式にビジネスを4人の息子に譲り渡しました。そのとき『あなたのお爺さんが私たちに何と言ったのか、忘れないようにしなさい』と伝えました。息子たちに伝えるのはそれだけで充分です。ジャンクを作って名前を汚すことがないよう、しっかり伝わっています。彼らはいい仕事をしています」

――カマカの音の継承についてはどう思いますか?

サミュエル「カマカの音は継承されています。今は作りがより良いので、昔のモデルより鳴りが長く残ります。あと弾いてみれば分かりますが、新しいブレーシングの音がします。これは長い時間をかけて私たちが学習し改善してきたことです」

フレッド「息子たちがビジネスを引き継いでから、9モデルすべてに改善を加えました。変更には全員が合意しないといけませんから、改善の作業には2年ほどかかりましたが、彼らが“これが自分たちの音だ”と決めたのです。彼らが追求する良い音、それこそが今のカマカの音なのです」

サミュエル「そう、私たちカマカのチャレンジとは、時代ごとに細かいことは変わりながらも、永遠に品質を保ち続けることなのです」


おっとりしたサミュエルJr.(右)と話し好きなフレッドSr.(左)の兄弟。父から息子たちへ、カマカの哲学は確実に引き継がれていく。

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