戦後の猫も杓子もウクレレ時代
――かつてのハワイアン・ブームとはどんなものだったんですか?
「戦後の焼け跡から復興してきた時に、日本でハワイアン・バンド・ブームが起こったんです。『憧れのハワイ航路』という歌に代表されるようにみんながハワイに憧れてね。戦前に音楽をやっていたアマチュアやセミプロの人たちも『それ! 平和になったぞ、これからは俺たちの時代だ』とばかりに再び音楽を始めたんです。若者でウクレレを持っていない人はいないくらい誰もがウクレレを持っていたし、ちょっと派手なケースに入れて繁華街を歩くというのが流行ったんです」
――ええっ! それは驚きですね。
「それがファッションだったの。それに六大学対抗ハワイアン・バンド合戦とか、職場でもハワイアン・バンド合戦があったくらい流行りました。大手の企業はお金を出して社内に楽器を揃えていたりしてね。猫も杓子もハワイアン、という感じでしたね」
――岡本さんがウクレレと出会ったのは?
「戦時中は群馬県の前橋に疎開していたんですが、戦後すぐ14歳で東京に出てきたんです。親父が亡くなって、食うや食わずの時代でしたから、遠い親戚がやっていた井出楽器という楽器問屋に就職、というか丁稚奉公したんです。それが昭和21年(1946年)でした。私はデパートの担当で、銀座の松坂屋とか新宿の伊勢丹などに派遣店員として出向いて働いていたんです。そこで初めてウクレレを弾きました。楽器を売る応援販売で行っているわけですから、お客さんに楽器を弾いてみせるんです。ウクレレでメロディをポロポロ弾いていましたよ」
――そのときに売っていたウクレレはカマカやマーティンなど海外のウクレレだったんですか?
「いえいえ、私が売っていたのは日本製の、おもちゃみたいなウクレレばかりでした。当時は1ドル360円の時代ですから海外のウクレレは高くて入ってこないし、まず買えませんでしたよ。バンドの先生だとかプロ並みの演奏家たちは外国人に頼んで手に入れるか、それがだめなら質屋さんを回っていました。当時の楽器屋さんは楽器を集めるために質屋を回って歩いたそうです。元プロがダメになって質流れしていたものがあったんです。浅草は昔は一番の繁華街でしたから、ミュージシャンたちは必ず集まっていたし、この辺りの質屋は楽器の宝庫だったんです」
――働く以前の子供時代に楽器を弾いたことはなかったんですか?
「戦争中なんて軍歌しか歌えない時代だもの(笑)! 子供の頃は勝鬨橋から海に飛び込んで遊んでいましたよ。楽器に触れたのは働き始めてからです。戦後すぐは自転車・リヤカーの時代でしたから、リヤカーで楽器を運んだものです」
おもちゃじゃダメだ
岡本さんの前に並ぶのは1957年製フェイマス(右)と1910年代カマカ・パイナップル(左)。良い楽器を知ることがフェイマスの成長の糧となった。キワヤ商会のウクレレ・ミュージアムにはカマカをはじめ、多数のヴィンテージウクレレが展示されている。 |
――ウクレレを作ることになったきっかけは?
「当時はハーモニカや木琴、リコーダーなどが学校の音楽の授業でも使われていました。井出楽器では三ッ葉楽器の木琴を取り扱っていましたが、その三ッ葉楽器ではウクレレも作っていたんです。でもおもちゃみたいな安物でした。私は若かったので、よく言えば新進気鋭というか、新しいもの好きだったんです。それで三ツ葉楽器の社長にも進言して『良いウクレレを作れば絶対に売れますよ。だけどこれじゃあダメだ、おもちゃみたいで全然鳴りません』と言ったんです。ちょうど学校の授業で使われる楽器から木琴が外されてしまい三ッ葉楽器も新商品を模索していた時期だったので、試行錯誤のウクレレ作りが始まりました」
――そこから始まるわけですね。
「ハワイアン・ブームのときはみんながめちゃくちゃウクレレを作ったんです。ハーモニカのメーカーや管楽器のメーカーまで作っていたんですから(笑)。いくらでも売れちゃって、徹夜で作っても間に合わないんですよ。当時一番人気だったのがカマノ楽器のルナ(のちにキワヤが商標取得)でしたね。私たちは後発で下っ端もいいところでしたから、よく“フェイマス(有名な)”なんて図々しい名前を付けたなとみんなに馬鹿にされたんですよ(笑)。でも『今に見てろよ! 売れるから作っているだけのやつとは違うんだ』と思っていました」
――最初に作り始めた時から「フェイマス」というブランド名だったんですか?
「違います。井出楽器時代は、『三ッ葉ウクレレ』とか、そんな感じの名前でした。井出楽器ではそのウクレレにそんなに力を入れていなかったんです。経営者はウクレレよりもギターや管楽器など高額なものを売りたいわけですからね。『ウクレレなんて安いものはしようがないよ』と言われながらも私が熱心にやるものだから、だったらやれ、という感じでしたね。でも井出楽器が昭和29年(1954年)に倒産しちゃったんです。まさか会社が潰れるとは思っていなかったから、この時も苦労しましたね」
――会社が潰れてすぐ独立したんですか?
「そうです。私は旧姓が内田というので、独立して内田楽器を一人でやりました。足掛け4年、まぁブローカーですね。そのときにこのフェイマスの基礎がやっと立ち上がったわけです。その後、井出楽器の得意先にキワヤ商会(当時の名称は喜八屋商会)があったんですが、その創業者であり先代の岡本喜太郎社長に見込まれて、社長として会社に入社して、正式にフェイマスを始めたのが1955年です」
カマカ or マーティン
――どんなウクレレを作ろうと思ったんですか?
「とにかく楽器としてちゃんとしたウクレレです。昔は残念ながらウクレレに対して不完全な楽器という印象を持つ人が多かったんです。特に音楽評論家など偉い人たちは、ウクレレはレベルが低い楽器だから他の楽器と比べるわけにいかないと。音程が狂うとか音量が小さいとかいう理由でね。そこで私は『何くそ、今に見てろ!』となるわけです。ウクレレを良くしなきゃいけないと、楽器として良くすることを考えたんです。プロのミュージシャンはカマカ派かマーティン派のどちらかに別れることが多かったのですが、私はどちらか一方に偏るのではなく、カマカのいいところもマーティンのいいところもよくわかっていたつもりです。でも形はマーティンの方がスマートでよかったので、マーティンをお手本に作りました」
――では岡本さんは強いて言えばマーティン派ですね(笑)。
「カマカがコアにこだわるならマーティンはマホガニー、と差別化が図られていましたからね。コアは木が硬いから音も硬くて明るい。マーティンは柔らかくて甘い音がしますよね。そこで好き嫌いが分かれるんじゃないですか? でもカマカの方が人気は高かったかもしれませんね。でもカマカは注文してもなかなか入荷しないから本当に大変だったんですよ! 『もう商売にならないよ』なんて怒っちゃったりしてね(笑)」
――ハワイタイムなんですよね(笑)。でもなぜ昔も今もこんなにカマカのファンは多いんでしょう?
「カマカ・ファンはハワイのファンでもあるからでしょう。ウクレレはハワイ。ハワイと言えばカマカ。カマカの後ろにあるハワイも見ているんでしょうね」
――それも含めてカマカだったわけですね。
「そうですね。それでやっと届いた時の喜びはひとしおになるわけですね。一時期日本製のカマカ(カマカジャパン)もあったんですよ。はっきりしたことはわからないんですが、もとは新聞社関係の仕事をしていた遠藤さんという方がカマカの了承を得てジャパン・カマカを作っていたみたいです。それは音もそこそこ鳴ったし、カマカの名前もあってちょっと売れたんですけど、もともと楽器屋出身じゃないので、3年くらいであっさりとやめちゃったんです。他の事業に切り替えちゃってね」
――マーティンなど海外のウクレレを手本にしながらも、フェイマスの一貫した価格帯はすごいと思います。決して高いモデルや安過ぎるモデルは作らない。そこが徹底していますよね。
「そうですね、楽器としてちゃんとしていながら、みんなが買いやすい価格にはこだわってきました。三ッ葉楽器からもっと価格を上げてほしいと言われたこともありましたけど、ウクレレを正しく広く世に広めたいという気持ちがありましたからね。自慢じゃないけどフェイマスの価格にはすごく誇りがありますよ(笑)。これからも他の価格帯のウクレレメーカーと一緒に切磋琢磨して一生懸命やっていきたいですね」
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