仕事でウクレレに辿り着くまで
編集中の楽譜をチェックする津和野さん。普段のにこやかな表情とはうって変わって真剣そのもの。 |
――津和野さんは『Rolling Coconuts』(以下R.C.)を始める前はどんなお仕事をしていたんですか?
「大学を卒業してから広告制作会社に入社し、コピーライターをやっていました。大学時代に『広告批評』が運営している広告学校に通っていたんですが、仕事をしながら勉強しているクラスメイトの一人が『うちの会社に来れば?』って言ってくれたので、就職活動もしないままその会社に入れてもらったんです。ちなみにそのクラスメイトは後に小説家になって映画化もされた『がんばっていきまっしょい』と言う本を書いた方です」
――その会社ではどんな仕事内容だったんですか?
「まずはアパレル関連だったんです。それが自分に合わなくて……(笑)。その後いろんな会社でいろんな業種のコピーライティングをしながら10年くらい勤めました。その中に某大手ビールメーカーが主催する音楽イベントの仕事があって、そのパンフレットを作ったんです。その中でアーティストにインタビューをしまして……」
――コピーを考えるだけじゃないんですね。仕事の幅はどこからどこまでなんですか?
「制作面ではメインはキャッチコピーですけど、広告の企画を考えたり、文章を考えたりと、デザイン以外のことはやりました。でもそれは会社によっても違うので、キャッチコピーだけを専門でやる人もいれば、キャンペーンをトータルで手掛ける人もいて、さまざまですよ。だから人によってはすごく面白い仕事だと思うんですけど、僕は合わなかったので(笑)」
――合わないというと?
「自分の興味のない商品や実感のない商品に関する仕事をすることができなかったんです。その音楽イベントのパンフレット制作で初めてインタビューをしてすごく面白かったので、『自分はこういうのが向いているのかな』と思うようになりました。その後会社を辞めてフリーのコピーライターになったのが31歳。最初の数年は小さな広告代理店に営業して広告制作の仕事をしていたんですが、そんなにたくさん仕事があるわけでもなく、暇だったんです。それで自分は何がやりたいのかを考えているうちに、やっぱりウクレレだ、と。学生時代からずっとウクレレが好きでウクレレ教室に通っていたので『自分の好きなものを宣伝しよう』と思い、エディトリアルでやってみようと突然R.C.を創刊したんです」
――創刊は何歳の時ですか?
「34歳ですね」
隣のデスクではデザイナーの住友さんがお仕事中。夫婦であり仕事のパートナーでもあるお二人なのです。 |
――ちなみにウクレレを始めたキッカケは?
「忌野清志郎さんが弾いていたんです。大ファンだったので、『これは弾くしかない!』と思って買ったのが最初です。その初めて買ったフェイマスのウクレレと一緒に入っていたパンフレットに載っていた日本ウクレレスクールに通うようになりました。だからウクレレを宣伝しようとR.C.を始めた時にはスクールの渡辺直則先生に相談して、アーティストとかメーカーを紹介していただいたんです。最初は印刷代のこととか何もわからないので、とりあえず形にしてみようと1冊作ってみたんですよね。友達も協力してくれて広告を出してくれたりして、創刊号は広告が3社でした。その広告費で印刷代を払って作りました。制作費はなかったです(笑)」
――デザイナーの住友さんは創刊号から携わっていたんですか?
「そうです。フリーのディトリアル・デザイナーだったんです」
――1号目を出して反響はいかがでしたか?
「こういう媒体がなかったので、意外と反響がありました。こんな薄くて小さいのに(笑)」
――参考にするウクレレ関連の媒体はあったんですか?
「関口和之さん著書の『ウクレレ快楽主義』と『ウクレレ・ラブ』という書籍がありました。でも僕は本を作るあてはなかったので、フリーマガジンにしたんです。1998年でしたが、ちょうどフリーペーパーが出回り始めた時期だったんですよ」
――ずっと広告畑で仕事をしてきているから、広告収入のみで媒体を作るという形態が身近だったんですかね?
「そうですね、宣伝したいという気持ちが強かったですし、それに自分はお金を出して買ってもらえるものを作れるなんて思ってもいなかったですから(笑)」
Rolling Coconutsとは
――最初に掲げたR.C.のテーマは?
「たいそうなテーマはなくて、手探りの状態でした。アーティストにインタビューできればいいな、くらいに思っていました。とは言ってもそんなにアーティストも多くなく、ウクレレシーンは今ほど成熟していなかったと思います」
――初めはどのくらいのスパンで発行していく予定だったんですか?
「3ヶ月に1回と決めていました」
――じゃあ実験ではなく、相当な覚悟があって始めたんですね。続けていくぞ、と。
「覚悟はありましたね。始める前に相談したレコード会社の人に『こういう定期刊行物をやると、あなた一財産無くすよ』って言われたんです。それは困るので頑張らなきゃ、と」
――一財産無くすということは、止まれなくて自分の資金を持ち出すことになる、と?
「ええ。そういう話もあったので、覚悟して始めましたね。ウクレレ関連以外の広告仕事もしながらでした」
――どのくらいで軌道に乗ったんですか?
「最初は広告が取れないので大変でしたけど、キワヤ商会の岡本社長がすごく好意的に応援してくれたり、いろんな人に支えられてなんとかやっていました。今でも順風満帆ではないですよ(笑)」
――“転がるココナッツ”というタイトルからして面白いですが、名前の由来は? ストーンズが好きだったから?
「いろんなものを掛けているんですが、まずは自分の人生転がってる、という(笑)」
――まず落ちてから転がるココナッツは石よりキツイですね(笑)
「雑誌の『ローリング・ストーン』を愛読していたので、ああいういい感じのマガジンができたらいいな、と思ったのと、ココナッツはストーンに代わるものでハワイっぽい。それにR.C.と省略すると自分が好きだったRCサクセションと同じイニシャルになる。もちろんローリング・ストーンズも好きですしね」
――ウクレレを匂わせないというか、直結しないところがいいですよね。
「コピーライター時代もネーミングが得意だったので、それが活きているのかもしれませんね」
創刊から10周年を迎えたローリング・ココナッツは最新号が43号目。たくさんのアーティストが表紙を飾ってきました。 |
――マガジンを作っていく中で人との大きな出会いは?
「やっぱり大きかったのは関口和之さんですね。2号目から出ていただいたんです。でも僕はバカなので、最初の5号目までは“普通の女の子を表紙にする”という変なこだわりがあったので、関口さんが出てくださっても清志郎さんが出てくださっても表紙にしなかったんです。バカですよね(笑)。女の子の表紙も良かったんですけどね。でも2号目で関口さんが出てくださったことで、他のアーティストの方にもオファーしやすくなったんです」
――関口さんとはどんな出会いだったんですか?
「関口さんはウクレレ普及活動をされていたので、著書の『ウクレレ快楽主義』を読んだりCDの『ウクレレ・カレンダー』を聴いたりしていました。絶対にお話を伺いたいと思って電話したら、快くOKしてくれたんです。ドキドキで行ったんですけど、ああいう方なのですごくやりやすくて、『ウクレレの人ってこういう人なんだなぁ』って思いましたね」
――1号目と比べて2号目からはだいぶページ数が増えていますね。
「ええ。2号目以降はずっと基本的に32ページでやってきているんです。それが一番取り都合(1枚の大きな紙から必要な紙が何枚取れるかということ)がいいんです」
――B6という大きさはどうやって決めたんですか?
「まずはお店に置きやすいサイズ、そしてウクレレだから小さいサイズがいいだろうし、ウクレレケースに入るとか、そのへんを考えました。あまり文字が入らないし、年配の読者のみなさんには小さい文字は読みづらいみたいですけどね。文字を大きくしたいんですけど、大きくすると文字量が入りきらなくなっちゃうので……」
――広告が多く入っちゃうとますます文字を入れるスペースが減っちゃって大変ですね。
「でも広告も読者にとっては情報ですから、むしろ広告が嬉しかったりするみたいですよ」
――広告を出してくれるスポンサーとの出会いはどんなものが多いんですか?
「R.C.を見てくださって、お電話をいただくことがけっこう多いんです。たとえばヤマハさんも1号目を見てくださってその後出稿(広告を掲載すること)していただいたんです」
――R.C.は最初から全国に撒かれていたんですか?
「初めは関東が中心でしたけど、関西などのウクレレサークルには送っていましたね」
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