ウクレレを通して出会った人々
――ずっとウクレレにこだわって長年続けてこられたわけですが、ウクレレの人気がない時代は大変だったでしょう?
「私はハワイアン・ブームが終わる頃にウクレレ作りを始めたわけでしょう? 後発メーカーだったんです。ブームのピークが終わるとあとは坂道を転げ落ちるようなものでしたよ。ハワイアンは一気に廃れてしまったんです」
――フェイマスを立ち上げた50年代後半はすでにハワイアン・ブームは下火だったんですね?
「そうです。その後はエレキが大人気で、その間にクラッシック・ギターやフォーク・ギターなどの人気があって、ウクレレのブームは待てども待てども来ませんでしたよ(笑)。でもそんな時にハーブ・オータさんと知り合ったんです。最近になってオータサンは『今から思えば岡本さんはよくウクレレを作り続けたねぇ』って言っています。『僕は弾くことでウクレレを世間に広めてきたけど、岡本さんは作る方で、よくこんなに長く続けてきたねぇ』って(笑)。私がオータサンに啓蒙されたのは、彼は“ハワイアンのウクレレ”という観念を取っ払った人でしょ? ハワイアンから抜け出てジャズもボサノヴァも何でも弾く。それを見て『やっぱりウクレレには可能性がある!』と思ったんです。
ハワイアンのブームなんか来なくても、ウクレレを楽器として認めてもらいたいという気持ちになりました。そしてオータサンに意見やアドバイスをもらいながら改善しましたね。当時は1本でも注文があると喜々として配達したものでしたよ(笑)」
――人気のない時代は月にどのくらい売れたんですか?
「少なかったねぇ。メーカーはみんな作らなくなったし、小売りの楽器屋さんはみんなウクレレを飾ってくれなくなっちゃった。ブームが終わったらさよならで、『こんなもん邪魔くさくてもういらないよ』って感じでしたね。在庫のウクレレはどんどん店の奥へ押し込められて、エレキやアンプばかりが並んでいた時代でしたからね。メーカーも楽器屋もいつまでも古い音楽にしがみついていたら潰れるよりほかないわけだから、新しい方へ行くのはしようがないんですけどね」
――でも他のメーカーがウクレレ作りをやめても、岡本さんは作り続けた。
「オータサンと知り合ったこともあって、『ウクレレは低俗な楽器じゃない。堂々と他の楽器と渡り合っていけるレベルになるはずだ』とあらためて信じたからでしょうね。売れもしないのにフェイマスでコンサート、テナー、バリトンまで当時揃えたのも、その想いがあったからです。だからウクレレ教室やサークルなど、少しでも需要があるところには全国各地回りましたよ。ウクレレの先生たちとコンタクトを取りながら、応援して回ったという感じでしたね。日本ウクレレスクールの渡辺直則先生はお父さんと親子2代でウクレレの先生をやっているんです。彼はよく銀座の伊東屋(文房具店)などでウクレレのデモンストレーションをやっていましたけど、生徒が2〜3人しかいなくてもスクールを続けてきたんです。彼は『岡本さんがいたから私は続けてこられた』って言うし、私は『渡辺さんがいるから続けられた』って言うんです。戦前の日本で最初のハワイアン・ブームのきっかけとなった灰田有紀彦先生もフェイマスを応援してくれました。灰田先生はオータサンよりも昔の人ですけど、プロのミュージシャンらしくないと言うか、非常に紳士でいい方でしたよ。彼がハワイからやって来て音楽を紹介したのが最初のハワイアン・ブームのきっかけでした。日本に初めて入ってきた軽音楽がハワイアンだったんです」
――灰田有紀彦さんはハワイ生まれで日本にやってきたんですか?
「ハワイ生まれの日系人で、日本の大学で勉強していたんです。初めて日本に軽音楽を持ち込んだ人だったんです。震災・戦争といった時代の流れの中で、日本に留まることを余儀なくされたんですよ。戦前・戦後の大スターですが私がウクレレに夢中だったから可愛がってくれたんですね。よく頑張りなさいと励まされました」
子供たちに知ってほしい
――ウクレレ人気復活のきざしを感じたのはいつですか?
「80年代後半ですかね。CMでウクレレの音がちらほら聴こえ出したあたりです。久しぶりのブームを実感したのは90年代に入ってからですよ。氷河期がずいぶん長かったですね。今は欧州や北欧でも人気が高いみたいですね。ウクレレは幼稚な楽器じゃない、と私が長年信じてきたことがやっと今、世界中で認められているんですね」
――ウクレレはちゃんと楽器として定着して、ブームで終わることなく弾かれ続ける楽器になってきていますよね。今後はハワイのように幼稚園や小学校の教育楽器になればいいですね。
「今後私が力を入れていきたいのは、子供たちにウクレレの良さを知ってもらうことなんです。近所に小学校があるんですが、4〜5年前からウクレレを貸し出して、講師を派遣して子供たちに教えているんです。ウクレレは子供に向いている一番の弦楽器ですし、実際に子供は本当に喜びますよ。もっと昔からその考えはあったんですけど、逆に学校やPTAの立場を考えると、楽器屋が自分の楽器を売り込みに来ていると反感を持たれるんじゃないかと危惧してやらなかったんです。でもこの歳になって思うことは、そういうことを言う人はどの時代にもどの世界にもいるんだから、それに遠慮したらいかん、ということです。だって自分は間違ったことはしていないんだから。それをどうこう言う人はごく一部で、その人たちは理解していないだけなんです。解かってもらうには続けなければならない。ただね、学校としては何かを削らないと新しいものを取り入れることはできない。だからどうしても時間が足りなくて、音楽の授業は削られる方向にあるんですよ。それで話し合った結果、土曜スクールだったらいいだろうということで、土曜日の時間をもらっているんです」
――ハワイでも音楽の授業は課外授業みたいです。そこにカマカもウクレレを寄付したりしています。ハワイからやってきた文化が日本の子供たちにも根付くといいですね。
「そう、とりあえずできることからやらなければいけないですね。でも生徒は少ないから、もうちょっと増えてくれてもいいんじゃないかと思うんですけど(笑)。あと学校の受け入れ体制の問題だけじゃなく、難しい理由はもう一つあって、子供と一緒に楽しく弾いて教えられる人材がなかなかいないんです。子供の目線に立って教えられる人じゃないとだめなんですよね。それに子供の集中力はせいぜい40分くらいなので、その間飽きさせない工夫ができること。その点、私たちは恵まれていましてね。私たちがやっているジ・ウクレレコンテンストで前回(2007年第4回)パフォーマンス賞をとったユニット、ハッピー・ホッピーの高木里香さんなんですが、弾けない人にとってウクレレのどこが難しいのかを重々解かっている人なんです。先生が演奏するのを子供たちは楽しみにしているし、先生の相方はパーカッションを叩く人なので、前回の授業ではウクレレとパーカッションを合わせてみたんですが、子供たちは大喜びですごい騒ぎだったんです」
――いいですね。本当に楽しそうですね。
「ただ子供の手は小さくて柔らかいから、ナイロン弦でさえも痛かったりするので、小学校3年生から教えるのが一番いいと思っているんです。月に1回、3、4年生を対象に教えています。5、6年生は勉強で忙しくて時間がないから教えられないんですけど、本当はずっと続けてくれたら最高ですよね」
岡本会長とともにウクレレの普及に努めるキワヤ商会社長・原京子さん(中)、安田慶宏さん(左)、大河原厚さん(右)。 |
インタビューを終えて
古い時代を知っている人から話を聞くことはとても興味深い。
事実として知ってはいることも、実体験を通じた生の声を聞くと、その当時のことが目に見えるように浮き上がってくる。
戦前、戦後のハワイアン・ブーム、その後のウクレレ冬の時代、そして今。
ひとりの男の信念と情熱が、日本のウクレレを支えてきた。
「大切なのは、続けること」
この人の口から出たその言葉は強い説得力を伴う。
2年前、岡本さんは初めてハワイに訪れたそうだ。
半世紀もウクレレを手掛けてきたのに、それまでハワイに行ったことがなかったなんて。
「忙しくてまとまった時間もなかったんで、ずっと行ったことがなかったの」
そこにたまらなく感動してしまった。
こういう人が日本を支えてきたんだな。
こういう人が繋いできた文化をきちんと伝えて、繋いでいかなければならないと思った。
キワヤ商会のウクレレミュージアム「樂」には、カマカをはじめ数多くの貴重なヴィンテージウクレレが展示されている。眺めていると古いウクレレを大切にして新しいウクレレを生み出してきた岡本さんの温故知新のウクレレ愛を感じる。ぜひ一度訪れてみてほしい。
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