musician's talk ウクレレを愛するミュージシャンへのインタビュー
gray-dot
Vol.1:
ウクレレとの再会は93歳。


sekiguchi

音楽漬けの毎日に理由なんてない

――ビルさんの音楽のルーツを教えてください。
ビル 「私は1908年にハワイで生まれた。私が住んでいた地域はネイティブ・ハワイアンばかりが住んでいたホノルルのセレノ通りで、当時私の母とその親戚だけが、そのエリアに住んでいたポルトガル系だったんだ。ネイティブ・ハワイアンたちは毎晩集まり、木に腰掛けてタバコを吸ったり、ブートレグの強い酒を飲んで、楽しそうにウクレレを弾いて踊っていた。それを子供の頃から見ていたんだよ。見ていると簡単なコードばかりだったから、自分も借りて弾き始めたんだ。それが7歳の時だね」
関口 「今のダウンタウンの、ヌウアヌとリリハの間のあたりですね」
ビル 「ホノルルの中でも人気のエリアで、家の反対側には日本の病院があったな」

――ウクレレの創始者の一人マニュエル・ヌネスの自宅の近くだったとお聞きしましたが?
ビル 「彼もセレノ通り沿いに住んでいたんだ。ヌネスの家は通りの一番端、クアキニ通りと交差するところにあった。ある日いつものように近所のハワイアンたちと一緒にウクレレを弾いていたら、ジム・クロールという人が『なぜウクレレを弾けるのか?』と声をかけてきた。そして『もっとウクレレを習いたいか?』と聞くんだよ。ぜひ習いたいと答えたら、明日また来るように言われた。その晩はドキドキして眠れなかったね。でも次の日彼のところに行くと、『ウクレレを持っていないのか? だったら教えてやらない』と言われてしまったんだ。『家に帰って練習しなきゃいけないから持っていないとダメだ。お母さんは買ってくれないか?』そんなことを聞かれたが、当時わが家にそんなゆとりはなかったね。父は家族を顧みず、ほとんど家にいない人だったからね。それでジムから『ヌネスのところに安いウクレレはないか聞いてこい』と言われて、コーヒー缶の中に貯めていた自分の小遣い75セントを握りしめて行ったんだけど、本当は行くのが嫌でね……。ヌネスは気難しい人で有名だったし、子供たちが自分の敷地に入って来ないように細工していたほどだった。でもどうしてもウクレレを弾きたかったんで、しぶしぶ行ったよ。私が行ったらヌネスはすごく驚いていた。『何しに来たんだ?』『ジムに言われて来たんだけど、一番安いウクレレをください』。そしたら棚の中からひとつ選んでくれた。私は怖くてとにかく早く帰りたかったから、よく見もせずにそれをくださいと言ったんだ。でも1ドル25セント寄こせと言われ、75セントしか持ってないと答えたら、ヌネスはその75セントを手に取り、『さっさと行っちまえ!』みたいな感じで追い払われたよ。私はウクレレを持って逃げるように家に帰った」
関口 「でもヌネスはちょっと優しいところもあったんですね」
ビル 「そのウクレレでジムからレッスンを2回だけ受けた。あとは友達から教えてもらったり、独学で学んでいったんだ」

――どんなふうに練習したんですか?
ビル 「ウクレレのことはAからZまで何でも知っているけど、どうやって学んだかは正直よく覚えていないんだよ。ただレッスンを受けたのは生涯で2回だけ。ウクレレを手に入れてから2年後くらいに第一次世界大戦が始まったが、その頃にはだいぶ上達していたね。ジムはウクレレ・プレイヤーとして人気者になっていたけど、私が弾いているのを見て、『どうやっているんだ? 教えてくれ』と彼の家まで連れて行かれ、弾かされたのを覚えてるよ。私は当時10歳だから教え方なんてわからず、ひとまず弾いてみせると、ジムが『ストップ!』と言って、それを一緒にやる、というふうにして教えたんだ」

関口 「当時のヌネスのウクレレの値段はどのくらいだったんですか?」
ビル 「私がヌネスから75セントでウクレレを買った当時、だいたいの相場はプレーンのウクレレで3ドル50、バインディングが入ると5ドル。当時パールが入ったウクレレはあまりなくて、マーティンくらいだったね。1933年に私はマーティン社に手紙を書いて5Kを買った。私はサミュエル・カマカと仲が良かったからカマカ社からコアをマーティン社に送ってもらい、ウクレレを作ってもらったんだ。ケースは中がベルベットですごくよかったね。ジッパーのケースカバーまでついてきたよ。ウクレレ自体は50ドル。ケースに20ドル払ったから、トータルで70ドル払ったな。その後私はメインランドに渡り、サンフランシスコのシャーマン・クレイ(当時全米で最も大きい楽器チェーン店)で1952年まで楽器の講師として働いた。ひとつのバンド・ツアーが終わると、シャーマン・クレイに戻って講師として働き、次のバンドが決まるとまたツアーに出るといった感じで16年間働いたんだ。だからウクレレの相場はその頃まで覚えているが、1952年にはマーティンのスタイルOが12ドル、バインディングが入ると15ドルだったな。確かインレイが入ると17ドル50」

関口 「最初に1曲弾けるようになった曲は覚えていますか?」
ビル 「もちろん覚えているよ。『Mai Poina』(英題Forget me not)だ」

と1曲弾いてくれるビル♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

ビル「マンドリンもバンジョーもすべて独学で学んだ。どうやったかは覚えてないけど、なぜか弾けるようになるんだ。ギターも同じだね。そしてギターが自分にとって一番の楽器になり、世界でも最高のジャズバンドで演奏するようになった」


――子供の頃はレコードで音楽を聴いていたんですか?
ビル 「そうだよ。すべてのお金をレコードに注いでいた。近所迷惑になるくらい何度も何度も繰り返しレコードを聴いたな。ウクレレに関してはレコードを聴く以外は友達がプレイするのを見て曲を覚えて、自分も弾いてみる。そうやって練習して自分の演奏方法を身につけていったんだ」


ウクレレからバンジョー、そしてギターへ

――ハワイではどんなミュージシャンたちと一緒にプレイしたり、どんな人に教えたりしたんですか?
ビル 「教えた人の数は多すぎて言い切れんが、ひとつ言えることは自分はすごくいい先生で、ハワイで名の通っているギタリストにはほとんど教えたということだ。ちゃんと練習しなかったり、真面目じゃない子には教えなかったよ。レッスンは月謝制で、サボる子は受け付けず、病気で休んだ子には振り替えでレッスンを受けさせた。ある医者の息子に4ヶ月ほど教えたことがあったんだが、彼はちゃんと練習しなかったから『君は別の趣味を見つけた方がいい』と話をするくらい、私は真剣に教えていたんだ。私から真面目に教わった人は全員がいいミュージシャンになってるよ。ホノルルでもサンフランシスコでも評判はよかった。中にはシャーリー・テンプルとかクラーク・ゲイブルなどの映画スターに教えたこともあったけど、それはどちらかというと宣伝目的だったね。アメリカに渡ってから一緒にプレイしたミュージシャンはたとえばヴィド・ムッソというサックス・プレイヤー。彼はとても素晴らしいテナー・サックスを弾いた。あとはチャーリー・バネット、サム・ドナヒュー、ビング・クロスビーなどのジャズメン。自分がアメリカでミュージシャンとして働いている間、ハワイのミュージシャンたちはみんな私のことを知っていたから、ハワイからメインランドに演奏しに来たバンドのほとんどと演奏したよ。中でも素晴らしかったのがソル・ホーピー、ラニ・マッキンタイア、アンディ・アイオナなどだね」

関口 「ウクレレ以外の楽器を弾くようになった経緯は?」
ビル 「私は12歳半で学校をやめた。それまでが学校教育のすべてだよ。その後ハワイのほとんどのムービーシアターで働いた。15歳までウクレレ・プレイヤーとしてヴォードヴィルのステージに立っていたんだ。ステージの袖に隠れていて、インターミッションの間に出て行って演奏する。ギターの人もいたよ。15分間のステージだった。それを掛け持ちしていたから、ひとつのステージが終わると外で待っているバイクに乗り、別のシアターに行って演奏するということの繰り返しだった。そんなある日友達とタクシースタンドで演奏していたら、ある人から『子供なのになんでそんなに楽器が弾けるんだ?』と聞かれたんだ。自分のことをすべて話して、彼が有名なジョニー・ノーブルだと知った。彼のバンドはモアナ・ホテルで演奏していたんだ。『なんだぁ、お前バンジョー弾けたらよかったのに。今バンドにバンジョー・プレイヤーが必要なんだ』と彼は言うんだよ。私はバンジョーを弾いたことはなかったけど、嘘をついて『僕弾けるよ!』と答えた。すると『水曜日に店に来い』と言われ、オーディションに行くことになったんだ。すぐに質屋を回って一番安いバンジョーを16ドルで買い、オーディションに行ったね。そのオーディションで私はバンジョーをウクレレのチューニングで、しかもメロディとコードを一緒に弾いたもんだから、ジョニーからすごく気に入られたんだ。それ以降はそれまでの仕事を全部辞めて、モアナ・ホテルでの演奏1本に絞ったんだ。それが16歳の時で、それ以来ウクレレは弾いていなかったし、持っていたウクレレは全部あげてしまった」

目黒ブルースアレイで行われたライヴ。101歳とは信じがたいプレイも飛び出し、素晴らしい音楽を聴かせてくれた。ライヴレポートはEventへ。


――再びウクレレを弾くようになったのはいつからですか?
ビル 「どんどんギターにシフトしていって、メインランドに渡りギタリストとして生きてきたんだが、妻を亡くしてから何をやっていいかわからなくなったんだよ。そんな時、孫にギターを教えるために楽器屋にギターを修理に持っていった。その店のオーナーがちょうどギターとウクレレを教えているところで、お客さんがウクレレを弾いていたので、借りてちょっと弾かせてもらったら、すごく驚かれたんだ。オーナーに名前を聞かれて答えると、『同名で有名なギタリストがいたな』と言う。私が本人だと言うと驚いていたね。そのオーナーが所属しているウクレレクラブにぜひ来てほしいと頼まれて、『56年ぶりだけど、迎えに来てくれるならいいよ』と行ってみたんだ。そこでウクレレを習いたいという人たちとたくさん出会った。そんなきっかけで再びウクレレを弾き始めたのが2001年。それまではギターが自分の楽器だったのに、今はギターを弾くのが怖いくらいにウクレレばかり弾いているよ。ウクレレ弾きとして世界中を回っていて、今回のジャパン・ツアーが終わったらロスに戻って、すぐにまたツアーに出るんだ」





















line

arrowトップページに戻る

 

©T.KUROSAWA & CO.,LTD All Rights Reserved.